2019年9月25日水曜日

2019/09/01(日) 戦争体験に基づく聞き書き

2019年8月27日(火)~31日(土)までの午前1時台のラジオ深夜便にて、映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように、戦争を懸命に生き抜いた人たちの体験談を紹介していました。
戦争の怖さを知らないのか、国会議員の中には「北方領土や竹島を戦争で取り返そう」と嘯(うそぶ)く方もおられます。
戦争は仕掛ける者、受ける者どちらにも悲惨な産物を生み出す以外の何物でもありません。
戦争を体験なさった方、またその子孫等は一生忘れる事の出来ない思いを背負って生きておられることでしょう。
川口教会の近所で被災された関係者や野崎姉妹の事を覚えて欲しいとご投稿いただきました。

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「戦争体験に基づく聞き書き」

永瀬 昭平

 戦争が始まって2年後、(1942年4月18日)想像もしていなかったアメリカの空母ホーネットから16機の双発B25爆撃機が日本各地を空爆した。川口にも1機が飛来し、元郷のディゼル自動車工場と今の市役所の東青木地区が被害を蒙った。家屋が200戸、12人の死者を含む120人の犠牲者が出た。
教会の信徒の家も焼かれた。犠牲ももとよりショックだったが、当時日本が負ける事を知らぬ我々にとって凄い衝撃だった。低空200m位の操縦席の米兵の顔が見えた。
 川口教会員の中に、新潟長岡に育った信徒の方がいる。戦時中米軍の爆撃練習に模擬爆弾が長岡に投下され、犠牲者が出た話を聞いた。
 教会員の実兄は日本の最後の防衛線であった硫黄島で戦い、牛島司令官とともに戦死。
 現在も日本硫黄島協会の参与をしておられる小林さんから、遺骨収集のことを聞いた。

 日本の敗戦に近く、とてもこの戦争に勝てないと判っていたころ、一部の指導者は各地で無謀な戦いを続けた。ビルマ(今のミヤンマ―)のインパール作戦は最大の死傷者7万を出した敗戦であった。大学の先輩の父上にあたる牟田口司令官の責任が問われ、解任されたが、最後まで現地の司令官として戦った。血の臭いの「レッドヒル」、戦死者白骨累々たる「白骨街道」と呼ばれた悲惨な戦地であったという。
 その部下であった23歳の斎藤少尉のことば「生き残ったものの悲しみは、死んだ人への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者たちの誤った理念に疑いを抱くこともなく、望みなき戦いを戦う世にこれほどの悲惨事があろうか」

 1945年(昭和20年)3月10日 太平洋戦争中、米国のB29爆撃機の9000mの高空爆撃から、終戦を早めるため、心理作戦の低空焼夷弾攻撃が東京の江東区を中心に絨毯爆撃となって襲った。荒川を隔てた東京のすぐ北の川口の町からは、南の空が真っ赤に染まり、半ば面白半分で他人事のように眺めていたことを思い出す。
 束になった焼夷弾が空中で飛散し、花火のようにキラキラ光りながら地上に落ちてゆく。後に結婚し江東区に住んだ6歳年上の実兄の話では、爆撃当夜火災の火に追われ、隅田川に累々の溺死体が浮かぶのを見たと言う。悲惨を極め10万人の犠牲の中を、九死に一生を得て川向うの江戸川区の別荘に逃げ延びた。
 翌日、空襲を恐れず聖戦を貫徹せよと政府の新聞記事があったとのこと。
 9000mの高空から空襲しても、日本の飛行機は戦えないと判って米軍は低空で一般家屋の燃えやすい焼夷弾爆撃に代えた。それでもそのうちの二機が川口市内に墜落している。
 今のオートレース場と飯塚町で現場にクレーターがあき、乗っていた24名の飛行士は地下に埋まっていた。
 その兄は同年戦争の敗戦(8月15日)のたった一ヶ月前、フリッピンバギオで米軍に追われ、何の救援もなく敗戦の密林で餓死したと、同行して生きて帰れた戦友から聞いた。その戦友も悲惨な戦争の経験から、鬱状態となり、何も詳細を語ることなく亡くなった。

“ひとことの残す言葉なく無念に眠る兄は何処ぞ”

 バギオで最後まで北島司令官として戦った山下奉文将軍は、太平洋戦争の初期、マレーシアの虎と讃えられ、宮本三郎の英軍のバーシバル司令官との会見に猛将として画かれ日本軍の勝利に酔った覚えがある。しかし1946年捕虜の虐殺、民間人の拷問、民間施設の破壊という罪状で処刑された。他の将軍たちと違って、二・二六事件ではテロの皇道派に反対し、戦地では穏やかな温和な性格で、極めて合理的な戦略で、何万もの兵力を守ろうとした。当時の大本営(戦時中の軍中央指令組織)のムリなゴリ押しに、前記実兄の戦死に繋がる敗戦となった。巨漢だった山下将軍はすっかりやせ細って投降したそうだ。
 出身は四国だか、自然と菊の花を愛した悲劇の将軍の墓は埼玉県大宮の青葉園に記念遺品とともに残されている。

 私と同年または1歳以上年上の友人たちは、聖戦参加と誘導され、みな戦死の状況が不明で遺骨すら戻らず、軍国日本の悲しい犠牲となった。国内に残った私たち学生(むかしの中学生)は勉強を中断し、男も女も軍事工場や軍補給地の疎開労働に駆り出された。労働していた郊外から見ていると、米軍の飛行機を追う日本の飛行機は殆ど見えず、遇々対抗しても薄い防御壁(操縦者を守るより機体を軽くし、操縦性向上のためと聞いた。)を撃ち抜かれ、撃墜されるのを度々みて悔しかったのを覚えている。

 平成時代は平和と言われるが、令和時代が戦争を知らない人ばかりになると、不幸の印象はなくなり、国家や国民の価値観がまたまた拝金主義、自国優先主義になり、戦争を怖がらなくなる恐れがある。
令和元年(2019年)が戦争への準備とならぬよう心したい。

 生物学に「獲得形象」(親の世代が経験や学習によって得た記憶や行動のこと)は遺伝しないのが原則といわれる。いくら戦争の恐怖を体験しても、その恐怖が子供に遺伝し、生まれつきもって誕生しないのが常識だ。ところが最近ある種の経験の伝達に、親世代の獲得形象が微小な情報粒子に乗って、遺伝するという論文が出た。戦争を経験しない無責任な私たちは、戦争責任は知らないよと言えなくなる。
広島から長崎からの核兵器根絶の悲痛な声を忘れまい。

 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた
 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど・・・このことだけは 忘れてはならない どんなことがあっても・・・
(長崎の被爆者 山口カズ子さんの詩)